囲碁 どうして、昔は、星が打たれなかったのでしょうか
昔(特に江戸時代)は、星がほとんど(と言うかまったく)打たれなかったらしいのですが、何でなのでしょうか?
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「昔は」と言いますが、本当の昔は、右上と左下の星に黒、左上と右下の星に白、の石を置いてから打ち始めたのです。(互先置石制)
さらに、4隅の星の次の、黒の初手は天元と決まっていた時代もありました。
互先置石制は、中国、韓国では20世紀はじめまで続いていました。
日本では、16世紀後半まではそういううち方をしていましたが、日海=算砂(の改革だといわれています)が、置石制を廃して自由に打つことを提唱して広まりました。
互先置石制の配置から打ち始められる碁は、すぐに戦いになり、局地戦の連続で終ってみたらいったいどっちが勝っているでしょう?みたいな、妙味のない遊戯でしかありませんでした。
そこに、『布石』と『棋理』を取り入れ、頭脳ゲーム、思考ゲーム、さらに技芸にまで高めるためには、最初から構想を練り楽しむことができるように、置石が廃止されたのです。
そこで新しく生まれた布石理論では、空いている隅や辺の大場の大小を生じさせ、如何に序盤を優位に運ぶか、研究や思考の部分が重くなってきましたが、そこで、星は、盤面を対角線に割っている位置にあるので、空いている隅や辺の大場の大小が生じにくいので敬遠されていってしまいました。
小目全盛時代の到来です。
小目時代の初期は、「シマリを打たせたら損。シマリを邪魔するだけで価値がある」とみなされており、カカリっ放しにしておく打ち方が多く、その石を攻めることで空隅が残ったまま中盤になることもありました。戦いが一段落したあとに空き隅に向かうとき、すでに小目にとらわれている人は、「どっちの向きの小目がよいか」と考えるのに、秀和などは「ここは左右のバランスから見て星が良い」と気がつく人でしたので、何局か星打ちの棋譜があり、秀和が打っているのだから、と自分でも応用してみる棋士も散見されます。
結局は、江戸時代に星が打たれなかったのは、碁は、小目布石を中心として理論を完成し、芸術として昇華していったからにすぎません。
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コミが無かったからです、先番で固く勝てば対面は保てたのです。
現在ではコミ7目半が妥当と見られているのでゆっくりコスミを打って居たのでは負けてしまいます。
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地に甘いというのと、当時はスピードを重視していなかったのが原因だと思います。
当時は星にカカられると大抵大ゲイマに受けてましたからね。地に甘い上に三三に入られると厚みとしても働かなくなってしまいます。呉清源、木谷實の両氏によって新布石が浸透するまではほとんど打たれてませんでしたが、本因坊秀和、本因坊秀策、本因坊秀栄などの大棋士たちは既に星の良さに気づいていて星を多用していました。
あと、コミは星打ちが広まったことには関係ありません。新布石法によって星打ちが広まった頃は、まだコミがありませんでしたから。木谷さんも星打ちを始めた直後に勝率がガクっと下がってしまいました(ほとんど負けていなかった黒番コミ無しで連敗)が、それでも打ち続けていくと勝率が良くなっていったのです。呉・木谷という大物が星打ちで高勝率をあげたのも星打ちが浸透した大きな理由のうちの一つだと言われています。
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